門 崎 允 昭 (狩猟界 1997年7月号掲載)
ナキウサギ(鳴兎)は、我が国では北海道だけに棲む珍獣だが、その生息地が鹿に侵害されている事例を最近確認したので、その実状を鳴兎の紹介をかねて述べよう。
鳴兎とは
鳴兎はpyitui ピィツイなどと甲高い声で鳴くドブネズミ大の獣だが、世界的に見れば、ユーラシア大陸とその北東部の島と北アメリカ大陸とに23種ほど現棲している。「程」と言うのは学者により種の分け方が多少異なることによる。 日本(北海道)に本種が生息していることが一般に知られ始めたのは昭和3年以降だが、世界的には古くから知られていた。アメリカでは鳴兎をpika(ピーカ、パイカ)と言うが、これは北東シベリアの原住民ツングース語の鳴兎を意味するpeekaから取った語である。中国語では鳴兎suutu,モンゴル語ではogotona またはochodonaと言う。北海道然別地区の開拓民は以前から本種をゴンボネズミと呼んでいたと言う。
属名のOchotonaという語はモンゴル語
この動物が学問の世界に初めて登場したのは、ロシアの博物学者パラスが1769年に、ロシアの鳴兎にLepus pusillusなる学名を付けてからである(学名と言うのは人で言えば戸籍上の姓名に相当するもの)。 しかし、Lepusはラテン語で兎を意味するが、鳴兎がLepusとは体の作りが多少異なることが分かり、その26年後(1795年)、やはり博物学者のリンクにより、Lepus からOchotonaに所属が変更された。
Ochotonaという語はモンゴル語の鳴兎を意味するogotona またはochodonaからラテン語化して造った語である。
北海道のナキウサギは学名はOchotona hyperborea
北海道にいるナキウサギは学名がOchotona hyperborea(極北の鳴兎の意)と言う種だが、この学名はやはりパラスによって、1811年に東部シベリアの鳴兎を基に命名されたもので、本種は世界にいる23種の鳴兎の中で最も広く世界に分布している種で、その分布はウラル山脈北部からシベリア・カムチャツカ・モンゴル・中国東北部、朝鮮北部、サハリン、そして我が北海道にまで分布生息している。したがって、北海道の鳴兎を世界の固有種ともとれる表現をする人がいるが、これは全く根拠がない。また本種を「氷河期の生き残り」、「生きた化石」と形容するが、本種の化石は古いものでも今から180万年前以降のものであり、北海道へはウルム氷期に(7万年前〜1、2万年前)ヒグマなどとともにサハリンの対岸の大陸からサハリン経由で北海道に移住してきたもので、前記のような表現は不適切である。しかし、本種は生息環境への選択性が強く道内での分布は不連続で個体群が各地で孤立しているので、その点からみれば、本種の道内での分布は生物学的には地理的遺存種と言うのが正しい。
北海道での鳴兎の 発見の経緯
これから述べる北海道での鳴兎の発見の経緯は(発見と言っても、一部の人は以前から知っていた訳だが)、私の恩師の故犬飼哲夫北大名誉教授と島倉享次郎教授(93歳でご健在)から直接お聞きしたことだが、網走管内置戸町勝山のオンネアンズ谷に面する海抜約400mの南斜面の山火事跡地に1925年(大正14年)にカラマツの稚樹を植えたら、以来4年連続して夏に早くも、稚樹の地上部が咬み切られ、持ち去られる奇現象が生じた(ネズミやウサギは主として冬に食害するし、ネズミやウサギはまず持ち去らない)。そこで、営林関係者はこの不思議な動物を「特殊野鼠:カラマツを食害する特殊ねずみ」と名付けた。
当時野付牛営林区の雇員の「ときや」さんが、箱(約35cm四方、深さ約7cm)を上下に重ねた罠を考案し多数仕掛けた(誘餌にカラマツの葉枝を入れ、それの一端に糸をつけ、その糸の端を上箱を支える細棒に結んで、動物が箱の中に入って誘餌のカラマツの葉枝を引っ張ると上箱が落ちて閉まる式の箱罠)。
その結果1928年(昭和3年)10月上旬に10頭ほどの幻の特殊野鼠が捕れた。これが北海道での鳴兎の発見の経緯だが、動物学者の岸田久吉さんが、その3年後に北大の木下栄次郎博士から贈られた本種1頭を基に、学名(Ochotona yesoensis)と和俗名(エゾハツカウサギ)を発表した。しかしその後、本種が大陸やサハリンに広く棲むOchotona
hyperboreaと同種とされ、学名は早く命名したものが優先するから、以来北海道の鳴兎の学名もOchotona hyperborea となった。
本種のアイヌ語名は残念ながら不明
なお、現在広く使われている「なきうさぎ」という呼称は、島倉享次郎先生が考えた俗名で、よく鳴くことに由来している。 本種のアイヌ語名は残念ながら不明で、本種のアイヌ語名を「クトロンカムイ」と言う人もいるが、これは残念ながら永田洋平さんの造語であり使うべきではない。 然別地区の農民は本種は一見尾がないように見え、しかも穴居生活するので、「ゴンボネズミ(ゴンボはゴボウで土深くもぐるの意)」と呼んでいた。
生態
本種の生息地は、ササ類が全くないか、あっても非常に少なく、しかも表土の有無に関わりなく、石や岩の堆積地であること。そして巣穴や移動には多くの場合その隙間を使う。巣穴の中が冷涼で乾燥していることが条件。林道工事で出現した石や岩の隙間も巣穴に利用することがよくある。 北海道では大雪山地域、日高山地、天塩北見山地などに生息地があり、土地利用区分でいえば、生息地はいずれも森林地域に属していて、全道の本種の生息地の総面積はその付近もふくめて、私の試算では約11万5千haで、全道面積の
約1、47%に相当する。
私の調査では、子が親から自立した後の9月以降の本種の生息密度は、高密度だなと感じる生息地で1ha当たり、数頭ぐらいのものである。
鳴兎は生態的には年中活動し、日中だけでなく夜も少なからず活動する。水には入らない。樹に上がることはまずない。雪に穴を掘ることはあるが、積極的に土を掘ることはない。食物はほぼ完全な植物食である。初夏から晩秋にかけて貯蔵植物を口にくわえて、雨が当たりにくい場所に運びため込むことをする。 時に日向で瞑想し、時に鋭い鳴き声を立て、長径が3〜5ミリの小さな丸い扁平な糞を沢山同じ場所に溜糞する。他に盲腸糞と言って、長さ18〜25mm、直径が3〜6mm程の紐状の柔らかい糞もするが、これは再食する。また、体中の皮膚に沢山のノミやダニが寄生していることなどが上げられる。
繁殖
本種は成獣で体長が(鼻先から肛門までの直線距離)普通15〜20センチ。体重が
130〜150グラム。発情期と育子以外は原則として単独行動である。本種は行動圏と縄張りとがほぼ同じで、雌雄とも自分の縄張りから同性の他個体を排除するが、一頭の雌と雄の縄張りは互いに重なりほぼ一致していて、発情期にこの雌雄が番となる率が高いという(川道氏による)。発情・出産期は4月〜7月。妊娠期間は30日間ほど(ノワク氏による)。{年に1産。産子数は1〜5頭通常2〜3頭である。新生子は体長6cm前後、体重10グラムほどで、全身薄い産毛で被われ、目は見えず耳も聞こえない。育子は雌だけがする。乳頭数は2対4個。生後1週目頃からヨチヨチ歩き始めチィーチィーよく鳴き、まもなく歯もほぼ出そろう。生後10日を過ぎると開眼し草を僅かに食べる。離乳は生後約2週目頃で体重は40グラム前後で、一人前に行動でき体毛は灰褐色でほぼ親と同じである。生後6週目頃には体重が120グラムほどになり、成体の体形になる(芳賀氏による)}。
{その後、子は遅くとも8月までには母から自立する。多くの子は個々の定着地(なわばり)を求めて分散放浪し新たな縄張りを見つけるが、中には雄(子)は父親を、雌(子)は母親を追い出して親の縄張りに定住する。本種が放浪するのはこの時期だけだという(川道氏による)}。体毛は刺毛と綿毛から成るが、いずれも柔毛で風で毛がなびき皮膚が見えるほどである。体毛の毛先はほぼ全身暗褐色から黄褐色だが胸腹部は他部よりもやや明るい。毛先の下部からの毛足の毛色は暗灰色ないし黒色である。それで風で毛がなびくと毛足の黒色が目立つ。5〜6月に夏毛に、9月〜10月に冬毛になる。
生息地の侵害
鹿による鳴兎生息地の侵害だが、私は置戸町管内の20カ所の鳴兎生息地を1994年から調査した。その結果、20カ所のうち、現在も生息しているのは半分の10カ所で、他の10カ所は過去の生息地だった。現在の生息地10カ所は、鹿が融雪期の短期間だけ採食や移動に利用。他の10カ所は、鹿の餌となる植物が鳴兎の営巣地に自生し、鹿が雪のない時期に多用していた。これは、鹿が鳴兎の営巣地を踏み荒らし、鳴兎の餌になる草木を食べるため、別の場所(代償地)に移動したものである。
さて、北海道の鹿は1870〜1880年代の過剰捕獲が原因で激減し、その状態が1940年代まで続いたが、その間に鳴兎はかっての鹿の生息地にまでその分布を拡大したであろう(仮説)。それが、数年前(1990年頃)から特に鹿の生息数と生息域が増拡大し、現在はその逆転現象が進行中と言えよう。現状は以前とは環境が複雑に変化しているであろうから、単純には予見できないが、この現象の原点は1860年代の鹿と鳴兎の棲み分け状態にもどりつつある自然の摂理だと私は見ている。
参考図書
門崎允昭著 実用鑑定野生動物痕跡学事典、 北海道出版企画センター刊行