アイヌとヒグマ
出典「ヒグマ(門崎允昭・犬飼哲夫著1,890円)」
北海道新聞社刊(増補改訂2003年版)
「アイヌとヒグマ」と「アイヌとトリカブト」の文章は、「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」の依頼で2005年7月に札幌市で、8月に東京都で筆者が行った講義のテキストです。1、<羆の実像>
羆(Ursus arctos)は日本では陸棲最大の獣で、アイヌがカムイ(神)と崇め、開拓民や山子(樵夫)が山親爺と畏敬していたが、山で見る羆の成獣は威風堂々としていて、見るものをして畏敬を感じさせずにおかない「緊張感ある自然」を創出している獣である。羆は夏には無立木地の高山帯や時に里にも出没もするが、根拠地はあくまで樹林地(自然度の高い環境「植生多様な」の土地)であり、羆を野生で残すことができれば、必然的に北海道の自然を一括して残せるという点で、羆は生態系の頂点に位する正に自然の元締め的獣である。
2、<羆の由来>
羆は現在日本では北海道にしかいないが、3万年ほど前までは本州や九州にも羆がツキノはグマと共に棲んでいた。羆はアジア大陸で今から90万年前ないし50万年前に、羆より少し小形のエトルリアグマから進化したもの。世界で最古の羆の化石は中国の北京の西南約40キロにある、かの有名は北京原人が発見された周口店の50万年前の地層から出土したもの。日本へは氷河時代(本州以南には20万年前〜13万年前に「海水面が現在よりも140m低下」、北海道には7万年前〜1.2万年前「海水面が現在よりも70m低下」)にアジア大陸から移住してきたものである。
3、<熊と羆の字源>
「熊」と「羆」と言う文字はいづれも古代中国で発明されたもの。これらの字の最も古い字体は今のところ紀元前三世紀の先泰時代に見られる古文と言う字体である。熊(中国語ではシォンと発音)と羆(中国語ではピ−と発音)を使い分けていた。「熊」と「羆」と言う文字が中国からわが国に何時頃伝わったのかははっきりしないが、わが国でこれらの文字が文献上最初に見られるのは、熊の字が古事記で(712年)、羆の字が日本書記(720年)である。
4、<クマとヒグマの語源>
日本語でクマと呼称している獣を何時頃からどのような理由でクマと発音しはじめたのかまだ解明されていない。多田義俊著の「和語日本声母伝(寛永元年1624)」には「暗くて黒い物の隅をクマと言うから、黒い獣の義」と講釈しているが、案外そんな理由かもしれない。「ヒグマ」の発音の由来もはっきりしていない。ただ中国から羆と言う文字がわが国に伝承された時にはヒグマと言う発音がわが国になかったことは確実である。なぜならば、西暦898年〜901年に編纂された漢和字書の「新撰字鏡」や西暦931年〜938年に編纂された漢和辞書の「倭名類聚抄」には羆と言う字に万葉仮名で志久万(シクマ)あるいは之久万(シクマ)と注記されヒグマとは決して書かれていない。この「シクマ(四熊)」と言う発音も中国から羆という文字が伝播された後に考え出されたものであろう。羆と言う動物が有史以来本州以南に棲息していなかったからそれを呼称する発音がそれまでわが国になかったのも当然である。「ヒグマ」と言う発音が何時頃から使われるようになったかだが、これもはっきりしていない。しかし、許慎(100年)の「説文解字」には「羆と言う文字は罷と熊の合体字(罷熊)でしかも能を省いた字で音は罷(ヒ)であるとあることから、後にこれに従って作られた発音とも思われる。
5、<北海道での羆の生息域と生息数>
明治前には北海道のほぼ全域が羆の巣窟であったが(生息数は4,500〜最多で5,500頭と推定)、それから137年後の現在は生息域が全道面積の半分となり、生息数は1,900頭(12月末、子が生まれる前)〜2,300頭(3月、子が生まれた後)に減少した。
6、<羆の生活>
羆は1年を1区とした生活型の獣で、その1年は穴に籠もる越冬期と山野を跋渉して過ごす活動期とからなる。 越冬期は11月末から翌年の4月末の間で、山の斜面に掘った横穴に籠もり絶食状態で過ごす。雌はこの間に子を生み育てる。発情期は5月下旬から7月上旬で、雄はこの間だけ精子が多量に生産され、雌もこの間だけ排卵する。発情期に番いで行動していた雄と雌は発情が終了するともはや一緒に行動することはない。したがって、出産と子の養育はもっぱら母獣が単独で行う。ヒグマの親子関係は完全な母系社会である
年齢はセメント層の年輪数で分かるが雌雄とも27歳前後まで発情する。母は子が1歳ないし2歳過ぎると自立させる。羆は雑食性で、時に鹿を襲ったり、羆同士闘争し共食いもする。主要な餌場や休息地や越冬地は縄張りとするが、他の行動圏は互いに遭遇しないようにして共用している。
7、<新生子>
ヒグマの子は1月から2月中旬にかけて生まれる。鼻先から体背にそって尾の付け根までの身体の長さはおおよそ頭胴長と言う身体の長さに等しいが、生まれた時の子の頭胴長は25cmから35cm、体重は300grから600grグラム、手足底の最大幅は17mmから24mmで、身体の大きさは母獣に比べて非常に小さく、大きなトブネズミぐらいである。だが、生まれてまもなく自分の筋力で母獣の肌に爪を引っ掛けてよじ登り、乳頭をさぐり当てて吸乳し成長する意欲を持っているから、身体が小さいからと言って、決して未熟子ではない。歯はもちろん生えてないが、これから少なくとも三ケ月間は母乳だけで育てられるから歯は必要ない。目も犬や猫の子と同じく、上瞼と下瞼が眼球を覆い癒着しているからもちろん見えない。また、耳孔も癒着しているから音も聴えないらしい。しかし、鼻孔は開いており、口唇や舌はよく動くから、臭覚や味覚・触覚は感じるようである。体毛は全身に長さ7〜8mmの生毛が疎生しているだけで、一見したところ体温保持に不充分の感じがする。しかし、子の身体の大きさや外界と断熱した雪下の土穴で母の身体に寄り添っての生活だからこれで充分なのである。
8、<養育>
ヒグマの乳房は平板型だから目立たない。乳頭は胸に2対4個と鼠蹊部に1対2個の計6つある。授乳中のヒグマの乳頭は直径・高さとも1.5cm程あって形も婦人に似ている。だから、アイヌの婦人がクマの子に自分の乳を含ませて育てた言う話も昔はあった。
さて、母グマは子グマに乳を一心に含ませ、産湯につけるように子の全身をなめてやり、さらには子の糞尿さえもなめとってやる。このよう
9、<3ケ月令>
4月に入ると、子も生後3ケ月令前後になる。頭胴長は生時の倍の55cmから75cm、体重も生時の約10倍の3kgから6kgになり、手足底の最大幅も5.5cmから6cmにもなっている。この頃には目も見えるし、音も聞こえる。乳歯ももちろん生えて来ている。体毛も全身に長さ4cm〜5cmの刺毛と綿毛が隙間なく生えて来ていて、春と言ってもまだ肌寒い日もあるであろう外界での生活への準備が出来つつある。この頃の子は穴のなかで盛んに動きまわり、土壁を爪で引っ掻いたり、穴の中に露出している木の張根などを咬じったりする。しかし、この動作も生れて始めて穴の外で暮らすために必要な筋力を増強するための訓練でもある。そして、母グマは子が自分に充分ついて歩けるように成長してから穴を出るのである。それは子が3ケ月令を過ぎた頃で、時季は普通、4月下旬から5月上旬である。
10、<1歳>
子グマは一歳の誕生日を母グマと同じ冬ごもり穴の中で迎える。この頃の子グマは頭胴長が90cmから120cm、体重は30kgから50kg、手足底の最大幅も9cmから10cmになっている。体毛も刺毛は8cmから9cmにもなり、容貎もヒグマらしくなっている。歯もほとんどが乳歯から永久歯に生え変わっていて、乳歯で残っているのは普通乳歯の犬歯だけである。歯の成長の早い個体では、乳歯の犬歯も抜け落ち、永久歯の犬歯の先端が10mm以下ではあるが歯肉から生え出ているのもある。ヒグマの子は一歳前後までは雌雄間で成長の度合いに然程違いがないが、一歳を過ぎると雄は雌に較べて身体がだんぜん大きくなり始める。
11、<養育期間>
母グマは子グマが1歳過ぎないし2歳過ぎるまで連れ歩き養育する。母子によって養育期間に1年もの差が生ずるのは、母と子の全身状態によるものである。したがって、同じ母グマでも時によって子を1歳過ぎで自立させることもあれば、2歳過ぎるまで養育することもある。
12、<子の自立>
母と子が別れるのは子が一歳ないし二歳になった年の春から秋にかけての時季である。早い場合は母が発情に入る五月までに別れるし、遅い場合は母の発情終了後も一緒に行動し、夏から秋にかけて別れる。いづれにしても、母グマは子と別れる時期の到来を身体で感じるのか、子を徐々に突き離すようになる。子も母の心の動きを感じるのか、母からだんだんと離れていく。子が二頭以上の場合、子グマ達は母から別れた後、しばらく兄弟で一緒に行動することもあるが、遅くても晩秋までには、お互い別行動するようになる。そして、冬ごもり穴に入る前にそれぞれが完全に孤独的行動をとるようになり自立するのである。
13、<アイヌの熊猟観>
アイヌは多神信仰でいろいろな守護神支配神の他に、地上の自然物も総て天上に住む神々が、アイヌに贈り物を届けに訪れた仮の姿(化身)と信じていた。神達は普段は天上の神の国(カムイモシリ)でアイヌと同じ姿で、同じような生活していると考えていた。
だから地上にいる羆も天上の羆神が、羆の姿に化身したもので、神は羆の頭に宿り、アイヌに肉などを届けにきがてら、アイヌの生活ぶりを見に訪れたと考えていた。その神はアイヌが為す儀礼で、幾度でも再生し天上界と地上界を往復しえると信じていた。
アイヌにはこのような信仰とともに、狩猟(贈り物を受け取り、神を祭り「土産物と与え」送ること「アイヌの責務と考えていた」)という観念もあり、出猟前に火の神(アベウチカムイ、老婆神)と家の神(イショブンギョカムイ)に「これからカムイ(羆)をお迎えにまいる。山におられる猟の神(ハシナウカムイ)に貴方様から、多くのカムイ(羆)に巡りあうことができますように、またカムイ(羆)が暴れずに、おとなしく迎えられますようお伝え下さい」と必ず「カムイノミ(神への祈り)」をした(犬飼・名取、1939)。
14、<アイヌの羆猟>
熊猟は、羆が一年を一区とした生活型で、その一年は穴での越冬期と山野での跋渉期とからなるために、これに合わせて穴熊猟と出熊猟とがあった。猟では弓矢や槍を使用したが、出熊猟の場合はもっぱら熊道に、人が弓矢を射らなくても、張り糸に羆が触れると、矢が自動的に発射する仕掛け弓(アマックウ)を設置する方法が行われた。これにはもちろん矢毒として主に附子が使われた。附子の矢毒はアイヌ語でsurkuまたはsurguといい、神に心良く酔って頂くための物という意味である。他に羆猟には「アカエイの尾にある毒針」を矢毒に用いることもあった。アイヌの羆猟には幼獣以外の殺獲猟と幼獣の生捕猟の二つの形式があった。
15、<殺獲猟におけるアイヌの羆観>の概要は次の通りである。
アイヌが羆を射るとカムイ(羆神)は徳のあるアイヌか否か即断し、徳のあるアイヌと分かればカムイが自らその矢や槍を受け、スルクに酔いながらアイヌと我が身の事象や由来を夢見ながら、アイヌに贈り物を渡すという。アイヌはその贈り物を受け取った後、その場に応じて、羆神に感謝し神の更なる地上への再来を願い、神に贈り物を与えて神の世界に戻って頂く儀礼を行った。そうすることで、神は神として天上で再生し神国でより豊かな生活ができると考えた。実際は「ウンメンケ」と言って、神が宿っていると見ていた羆の「頭」に飾り付けをし、イナウ(「削り掛け」とも訳す、木棒をカール状に削って作る)を作り、呪文を唱える儀礼を行った。頭はその後も丁重にヌササン(祭壇)に祭られ続けた。
16、<イナウ>
アイヌが用いたイナウは、和語でいえば神事の幣(ヌサ、ヘイ、御幣)に相当するもの。
木肌が白い木や匂いが悪くない木(ヤナギ、ミズキ、キハダなど)を用いた。
意義:神への奉げもの、アイヌと神との仲介役をするもの、神聖なもの(悪魔が嫌うもの)
17、<幼獣の生捕猟>は次の通りである。
春の猟で子熊を生け捕った場合には、カムイが子熊の姿に化身して、アイヌの元に長期滞在してアイヌの生活の一部始終を見にきてくれたと解し、コタン(部落)として名誉なこととし、神であるカムイがコタンにいる間は、疫病も飢饉も発生しないことが保証されたとし、子熊が1歳ないし2歳になるまで我が子以上に大切に育てた後、盛大な熊送りの儀礼(イオマンテ)を行った。これが後に和語で「熊祭り」と言われる儀礼である。花矢を用いた。毒矢は使用しない。最後に首を木で挟んだ。
18、<儀礼の意義>
アイヌは羆の眼球や耳鼻舌の軟骨や脳(雌は右側頭部、雄は左側頭部に穴を穿つ)などを「フイベ(アイヌ語で「生食しえる物」の義)」と称し生で食べた。これは羆のカムイが有する優れた視力・聴力・嗅覚・知能やチャランケ「勝敗を決する議論」に勝つためなど、羆の優れた性能にあやかるためであった。要するに、羆送りの儀礼は「カムイに対し、(1)その贈り物に対する感謝の意志表示と、(2)カムイの優れた能力と性能にあやかるためと(3)カムイにみやげ物を贈りカムイが天上で豊かに暮らすための儀礼」で、その根底には「アイヌとカムイの相互扶助」の思想があった。
19、<熊獲り談義>
窪田子藏 (1856)の共和私役には、「夷人を集め熊を捕る談を聞く」という段があり、話の内容は次のとおりである。「大抵二人で弓と犬(多い方がいい)を連れて熊捕りに行く。鏃の窪みには附子毒を付ける。犬熊を見れば鳴く。夷人矢を構えて熊の二・三間まで近づき、大声を発して熊を怒らしめる。熊怒りて立ち上がり、両手をあげ夷人を撲裂せんとした時に矢を発し、すぐに熊から離れる。熊怒りて夷人を追う。矢折れて鏃は熊の体に留まる。側より他の夷人熊に矢を射る。熊また怒りてその夷人を追う。前の夷人戻りて再び熊に矢を射る。この頃には毒熊の体を廻りて熊猛りといえども目眩し足萎えて倒れる。毒矢甚だ強き時は一矢で熊斃れる。しかし三矢でも熊斃れないこともある。そのときはさらに矢を射る」とある。
20、<穴熊談義>
また、同書には穴熊を捕る談もあり、それには、「熊が穴から飛び出さないように木を三本伐り、その木で熊穴の入り口を塞ぐように入り口の中央に縦に一本、他の二本を又の字に左右斜めに打ち立て、さらに細木で密に入り口に柵を作る。それから木の枝葉を穴に挿しいれると、熊は怒りてそれを引っ張り穴奥に引き入れる。それを繰り返すと熊はだんだん入り口近くに出て来る。そこを矢で射る。一・二発射ると熊遂に斃れる」これ夷人穴熊を獲るの術なり」とある。
21、<毒矢と毛皮>
八田(1912)は仕掛け弓による熊の猟法について次のように述べている。「仕掛け弓を敷設したら四日ないし七日おきに巡視する。仕掛けの矢がなければ熊が掛かったのだから、笹や草の倒れ伏している方に静かに注意深く捜索していく。熊が嘔吐した形跡があれば、毒が弱くて熊は斃れずに逃げたのだ。また五六間(約10m)歩いたきりで斃れていたら毒が強過ぎたのである。毒が強過ぎると毛皮にしてから毛が抜けるし、肉も腐敗が速い。アイヌはそれを嫌って矢が刺さった部分を慌てて欠きとる。毛皮に丸く継ぎが当ててある毛皮は「仕掛け弓で獲った皮だといって人は喜ばない」と。
22、<凶悪熊>
(1)凶悪な熊があるとこれをアイヌは神から見放された不幸な熊と考えて処分をする。しかし熊に食われた人間の方は決して神の祟りとか神罰とか考えた話は伝わっていない。人食い熊の処分法は地方によって多少形式が異なるが、その主旨においては共通点があって要するに普通の熊の如くに丁寧に神扱いにせずに、神罰の心積もりでアイヌの手でこれを苦しめてやり、懲戒の意味を含めて処置する。
(2)音更のアイヌは人食い熊を退治した時は皮を剥いだり、肉を取ったりすることなく、その場で細かくズタズタに切り刻み辺り一面に投げ散らして、鳥や犬が自由に食うようにし、決してイナウなどは飾らないし、また人はこの熊の肉は食わない。その場を去るにあたってこの熊に向かって、これから以降は心を改めて決して人間を襲うというような悪心を起こしてはならないぞ。改心すれば必ず立派な心のよい熊に生まれ変わって再びアイヌの世の中に現れ、アイヌ達から神として祭をして貰い、親元の国に送り帰されるぞと言い聞かすのである。音更のアイヌ達は人を食ったり怪我をさせた悪い熊は山にいても神の咎を受けて最早いかなる食物も食えなくなり、日に日に痩せ衰えて遂に餓死すると言い伝えている。
(3)山に棲む熊にも確然たる系統があって、例えば阿寒の山の熊とか、オプタテシケ山の熊とか先祖から連綿としていて、熊自身も先祖を辱めない様に身を振る舞うものと信じている。そこで山野で急に人間に襲いかかるような熊があると、これは何か熊の誤りであると考えるから、その時は熊に出会い頭にキッと立ち向かいエイヤと一声怒鳴ると熊は大概すっと立ち上がり手を広げて人間を睨んで身動きもしない。この時おもむろに熊に向かって、お前は今人間に手向かうような悪心を起こしているが、それは何かの間違いではないか。お前は自分の系図をよく考えてみろ。お前の先祖は長くからこの山にいて、今迄に決してこのような悪い心持ちは起こさなかった。その行為はカムイに対して誠に申し訳ないことではないかと言い聞かす。熊はこの言葉に恥じ入って一歩づつ後に退き遂に姿を消すという。(十勝国、上士幌、淺山時太郎氏談)
(4)美幌コタンのアイヌは人食い熊を斃した時は、その場にそのままイナウも何もつけずに放置し、腐敗するに委せ、決してその肉は食べない。山で熊を銃やアマッポ(毒矢の仕掛け弓)で捕って身体を検べて若し歯牙が欠けたり、身体に異常があったりすると、これは人を食った証拠とし、この熊を処置する時は普通の健全な熊と異なりイナウを全然つけずに簡単に祈りをなして神送りをなし、或いはその異常の程度により普通よりもイナウの数を少なく作って簡単にカムイノミ(神への祈り)をして親元に送る儀式をする。(美幌、菊地儀七氏談)
(5)八雲地方では斯る熊を腹側の皮を切って剥ぎ、背中側はそのまま皮を剥がずに残して皮を裏返しする如くに剥がし、結局胴体と皮があべこべになるようにして穴を掘って埋め、その上に殺された人を葬る。熊にはイナウをつけずにこのように醜い身体にして懲らしめてやるから、心を改めて生まれ変わって善良な熊になるようにと言い聞かす。(八雲、椎久年藏氏談)
(6)鵡川地方に於いては人食い熊は頭を切り取り、頭と殺された人を共に葬り、熊が決して「親元の神の国に帰り復活」(ヤヘカツチプ)してこないように永久に葬ってしまう意味を表す。(鵡川、邊泥五郎氏談)
(7)白老では他の地方に比較して非常に複雑な取り扱いをする。即ち狩猟中に山の中で熊に殺された場合、その人間は熊から非常に好かれて神の国に貰われて行ったと称し、一応は「ロルンベ」と称し悪魔払いの儀式をなすが、これを普通の死人の如く土を掘って埋葬することなく、地上に安置して単に木の柴を上に掛けてそのまま放置し、神に捧げたことにする。次にこの熊を捕った時は、その身体を充分に検査して、これが真に悪心を起こして人を襲ったものか、単に出来心で為したか、或いは自衛上に止むを得ず為したかを判断する。この判断の標準になるのは熊の「イレンガ」即ち型相を見るのであって、永年の狩猟の経験からその形貌が凶悪であるか、臆病な大人しい熊であるかが断定される。もしも悪相の熊であれば徹底的に処分する意味で、皮に頭をつけて剥いでこれを西の方向に向けて腐木の上から被せ、肉は切れぎれにしてあちこちの腐った木や根株の上に掛けて放置し、熊には「お前は神様の親類であるのにこのような醜いことをやったのだ、だからこのようにして懲らしめて惨めな姿にしてやるのだ。お前のような心の持ち主は神も人もいない悪魔のモシリ(国)へ行ってしまえ」と言いイナウは全然与えず神にならないように処置し、改心や復活の余地を与えない。
次に熊の誤解から心ならずも人間を襲ったと思われる善良な相貌の熊は、神の国へ送って復活せしめないと可哀想であると称し、イナウを作るが、しかし普通の熊より少なく作って神にお詫びをさせ、これからは悪神に誘われることなく必ず善き神の国に帰って復活するように誓わせる。
凶暴なる熊が故意にコタンを襲い人間を食った場合は真の悪神(ウエンカムイ)とし、その顎を外して便所の陰に捨て、剥いだ皮は腐木の上に掛けて腐敗に委せ、出来るだけ酷い目に会わせて懲戒する。
23、<矢毒の禁止>
明治九年(1876)九月二十四日(甲第二十六号)に、本庁布達でアマッポを全道で禁止した。すなわち、「従来旧土人共毒矢ヲ以獣類を射殺スル風習ニ候処右ハ獣類生息妨害不尠ニ付今後堅ク相禁候然ルニ旧土人ノ旧慣一時常業ヲ失ヒ目下困難ノ者可有之ニ付他ノ新業ニ移ルヘキハ之ヲ移シ又ハ猟銃ヲ換用セントスル者ハ之ヲ貸し興シ年々収穫ノ鹿皮十分ノ二ヲ以漸々猟銃代価ヲ償還為致将来生計ノ途ヲ失ハシメサル様誘導方厚ク注意可致尤弾薬購入不便ノ地ハ該分署ニ於テ適宜払下取計且銃器取り扱いノ義ハ精密教示致ヘシ」と。
以来アイヌの矢毒文化は、衰退の道を歩むことになった。明治14年(1881)に開拓使は函館管内に「仕掛け弓を設け鳥獣を捕る者があるが、人に危害あるので、その設置を禁ずる。もし鳥獣などの害があって、それを設置する者はその場所に目印を立てるか、縄を張って人に分かるようにせよ」との布令を出しており、当時はまだトリカブトの矢毒を矢に塗りこんだ仕掛け弓が、まだ盛んであったことが分かる。
24、<矢毒の最後>
矢毒の仕掛け弓が使われていたことを語る最後の記録は、砂沢クラ(1897−1990)さんの記述である。明治41年(1908)10月の思い出に「秋になって父また士別へ猟に行く・・・・いとこ姉泣きながら私の手を取り、あなたの父熊に殺された。といって泣き、(父が)ニサマンという所にamappo(仕掛け弓)かけているの分かっているから(兄が)行ったら(父の)鉄砲も曲がって土に刺さっていた。父が(熊に襲われて)顔めちゃめちゃにされて・・・・」。 これはクラさんの父が熊を獲る仕掛け弓を見に行って、熊に逆襲され殺された時の話である。この頃のアイヌは表向きは鉄砲を主猟具に持ち歩くとともに、山奥では仕掛け弓も併用していたのである。もちろん矢毒はsurkuであった。
しかし矢毒による猟法も、それに固執する古老達が故人となるにつれて、だんだん実用されなくなった。大正15年(1926)6月生まれの平取町の萱野茂さんは「昭和7年(1932)頃、父が天塩の遠別に熊獲りに行き持ち帰った荷物の中から何十本かの仕掛け弓の引き金が出てきたのを見た記憶がある。・・・アイヌ達はずっと山奥でこっそりと使っていたのです(アイヌの民具、1978)と書いておられる。多分この頃がアイヌの矢毒使用の最後だろうと私は思う。
25、<熊の棲む自然>
羆あるいは羆の棲む自然から人が受け得る精神的効用、これは自然の霊力だが、それは絶大であり、いかに科学や宗教が発展しようとも他で代償し得るものではない。実際歪みが極限に近い現社会に生きる我々は野生動物の生き様を鏡とし、我々の生き様を是正していかなければ、人間社会は精神面から破綻しかねないと私は強く思う故に、野生動物、ひいては総ての生物と人類がこの大地を共有していくことの必要性を唱えたいし、またそのような自然を子々孫々に残し伝えることも現代に生きる我々の当然の責務であることを主張したい。
<付録>
1、<人身事故とその対策>
私はヒグマとの共存は人身事故の防止が前提との観点から、その方策を確立するために、1970年(昭45)以来北海道で発生したヒグマによる人身事故を逐一調査検証し、その予防と万が一熊に襲われた場合の生還策を提起してきた。 北海道では「山菜採りができるような場所は熊と遭遇する可能性があること」を自覚しなければならない。そして熊による人身事故を避け生還するためには、熊の出没地に入る時は「保険に入ったつもりで鳴物と鉈」を携帯することである。猟師以外の一般人を襲う熊は、「精神的に不安定な2〜3歳(希に4歳)の若熊か、子を連れた母熊」である(1件のみ8歳の雄)。
鳴物で遭遇による被害を予防できる。また、万が一熊が襲って来た場合には、「鉈で死にものぐるいで、熊のどこでもよいから叩きつける」ことだ。過去の事例から、死なずに生還するには「反撃以外ない」ことを自覚して欲しい。 熊は人から反撃されて「痛い目に遭うと、必ず攻撃を止め」逃げている。
熊除けスプレーは有効距離が4m以内であり、熊はそれよりも離れた地点から、瞬時に襲いかかることが多く、その場合はスプレーは通用しない。スプレーの主成分は南蛮(カプサイシン)で、人が間違ってこれを吸ったり、目や鼻に少しでもこれが入ったり、皮膚に着いたら痛んで我慢できないもの。「熊の棲み家では「鉈と鳴物を持ち歩くことが生還する」ための鉄則で、これは越冬期の穴熊による人身事故対策にもいえることで、これを実行すれば熊を恐れることはない。
2、<羆が人を襲う原因>
羆が人を襲う原因は三つに大別される。(1)人を食べる目的で襲うことがある。(2)戯れで襲うこともある。(3)人をその場から排除するために襲う。理由は、遭遇による不快感からの先制攻撃や、母熊が子を守るための先制攻撃。人が持っている食物や作物家畜などの入手、あるいはすでに確保した物や場所を保持し続けるのに邪魔な人間を排除する。これには越冬穴の存在に人が気ずかず穴に近ずいたために、穴から羆が飛び出し襲ってきたというのもある。
3、<人を襲う熊の存在率>
多くの人が熊は総て人を襲うように考えているが、決してそうではない。
猟師を熊が逆襲するのは保身のための防衛であり、これは当然一般人の事件とは異質で同一視できず、切り離して考えなければならない。それでは一般人を襲う熊の存在率はどのくらいかといえば、それは約1/2000頭である。その算出根拠は次の理由による。最近35年間に一般人が熊に襲われた件数は36件である。すると、年平均件数は(36件/35年=)約1件である。そして、この35年間の熊の生息数は年によって多少の変動はあるにせよ、ほぼ2,000頭と推定されることから、1年間に一般人を襲った熊の存在率は(1件/2,000頭=)約2,000分の1頭となることによる。これで、人を襲う熊はいかに少ないかお分かりいただけたと思う。これとても、人が積極的に鳴り物を鳴らすなどの対応を講じていればもっと人を襲う熊の比率は小さくし得たはずである。
4、<人身事件の内訳>
35年間(1970〜2004年) 総件数66件
自損5件 実際の事件は61件
猟師25件 一般人36件
「一般人の事件36件の内訳」
原因別
食害9件、戯れ4件、排除23件→遭遇11件
その他12件→穴の確保 5件
食物の入手 2件
土地の確保 1件
子の保護 4件
5、<人身被害を最小限にする具体策>
熊による人身事故を避け生還するためには「北海道には熊が居て当たり前」という自覚と、万が一に備えて「鳴物と鉈」の携帯が必須条件。
熊(羆)と遭遇する可能性がある地所での実用的行動(これは私が実行している方法)。
必ず軽い小型の笛(ホイッスルが最も良い)と鉈を携帯する(武器として実用的な物であること)。刃渡り20〜25cmで、振ってみて手が疲れないもので、しかも軽過ぎないもの。
先ず、勇猛心を持ち、常に熊と遭遇した場合の対処法を頭に入れ、時々それを思い浮かべながら行動すること。
具体的には
(1)軽い小型の笛(ホイッスルが最も良い)で5分に1〜2度ぐらい吹いて進む。常時音の出る物(鈴、ラジオなど)で音を立てて歩くと、熊の出現など辺りの異常が感知し難いので、要注意である。時々声を出しながら進むのもよいと思う。(2)辺りを充分注視しながら進む。見通せる範囲はもとより、その先の死角部分の手前では、特に歩調をゆっくり遅めて、注視すること。(3)万が一熊に出会ったら(20m以上距離がある場合)、走らないで、熊の様子を窺いながら、熊から離れること。(4)距離が10数mないし数mしかない場合は、その場に止まりながら、話しかけること(最初は普通の音声で、それからは大声で)。そして熊が立ち去るのを待つ。 自分も少しずつその場から離れてみる。熊の通路を自分が邪魔していることもあるので、熊に話しかけながら、ゆっくりと退去し横に避けてみる。
以下は私は未経験である。
(5)側に登れる木があれば登り逃げる。 襲ってきたら死にものぐるいで鉈で熊の身体のどこでもよいから叩く。これ以外に「有効な生還策」はないと思う。
6、<爆竹・投石・大声・呼子で脅し生還した事例>
「人に襲い掛かろうとしている熊に爆竹、投石、大声で脅すことは熊をかえって興奮させて、人への攻撃を誘発する」と想像による空論をいう人がいるが、これは誤りである。現に「人に執拗に付きまとう熊」、「人を襲おうとしている熊」、または「襲いかかって来た熊」、「人を襲い人に反撃されて一度人から離れた後、再度人に掛かろうと人の隙を窺って寄って来た熊」を爆竹・投石・大声・呼子を吹いて撃退させた事例があり、これらも有効な手段である。しかし、確実な生還の条件はやはり「鉈での反撃」である。「爆竹」1999年10月10日午前9時頃に三笠市管内の桂沢湖で釣人に執拗につきまとった2歳熊を爆竹で撃退した例がある。爆竹を携帯し、熊に執拗につきまとわれた場合には爆竹を鳴らすのも有効な一法である。「投石」で撃退した事例は、上ノ国の事件(1991年5月12日、事件No.43、熊は多分2〜3歳)がある。また日高山脈の事件の経過での事例(1970年7月26日、事件No.1)もあり、この熊は2歳6ヵ月齢の雌熊である。「大声」で撃退した事例は、千歳市の事件(1976年6月5日、事件No.15、熊は2歳4ヵ月齢の雌熊)、江差町の事件(1979年9月28日、事件No.24、 多分2歳熊)がある。「呼子」を大音で吹いて熊を撃退した事例は、紋別営林署の事件(1995年2月13日、事件No.47)がある。この熊は2〜3歳である